1: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:05:12.15 ID:La4hkDje0
『里志「昨日部室で何が起こったのか」 摩耶花「気になるわね」』をお読みになっていた方は
ここからどうぞ
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奉太郎「38度9分か……」・
える「付き合ってください!」 奉太郎「はい」 ・
摩耶花「折木の髪を切るわよ!」 える「……」・
える「お花見に行きませんか?」・
奉太郎「旧交を温めよう」引用元:http://ex14.vip2ch.com/test/read.cgi/news4ssnip/1347361511/
2: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:06:20.42 ID:La4hkDje0
放課後。古典部の部室には、わたし一人でした。
わたしは、花瓶に花を活けていました。
昨日、部室を整理していると、可愛らしい花瓶が出てきたので、ちょっと思い立ったのです。
花は、今朝家から持ってきたものです。これで部室も華やぐでしょう。
える「フ~ンフフ~ン♪ フフフフフ~ンフフ~ン♪ フフ~ン♪」
気付けば、鼻歌まで口ずさんでいました。
なにしろ今日のわたしは、ご機嫌なんです。
だって昨日は……、昨日は……。
いけませんいけません! 自分でも、顔がだらしなくにやけているのがわかります。
こんなところ、とても他人様にはお見せ出来ません。
でも……、でも……。
……今日は一日、これを抑えるので精一杯でした。
3: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:07:00.37 ID:La4hkDje0
える「はぁっ」
花が形になったので一息吐き、窓の方へ向かいます。
窓を開けると、爽やかな春の風が舞い込んできました。
あまりの心地よさに、しばらく身を任せていると、突然部室のドアが開きました。
摩耶花「おーす、ちーちゃん。元気~?」
える「あ、摩耶花さん。こんにちは。はい、元気ですよ」
そして机の上の花に気付くと、言いました。
摩耶花「わぁ~、綺麗。ねぇねぇ、どうしたの?」
える「はい、昨日部室の整理をしていたら、この花瓶が出てきたんです。
それで、花でも飾ろうかってことになったんです」
摩耶花「そっかそっか。うんうん、やっぱこういうのがあると、部室も華やぐってものよね」
4: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:07:32.39 ID:La4hkDje0
摩耶花さんは椅子に腰掛け、足をぶらぶらさせながら、しばらく花に見蕩れているようでした。
やがて、指先で花びらを突付きながら、いたずらっぽく笑ってこう言いました。
摩耶花「ま、いくら綺麗な花を飾っても、あの朴念仁には猫に小判よね」
朴念仁。言うまでもなく、折木さんのことです。
摩耶花さんや福部さんは、時折こうして折木さんのことを、悪し様に言うのです。
える「ふふっ。いいえ、摩耶花さん。最初に花を飾ろうって言い出したのは、折木さんなんですよ」
摩耶花「ええ~~~っ!? あの折木が!? あ、あり得ないわまさかそんな……。
ねぇ、冗談なんでしょ? 冗談って言ってよちーちゃん!」
摩耶花さん、いくらなんでもうろたえ過ぎです。
摩耶花「! まさかこの花も折木が!?」
える「いえ、それは今朝、わたしが……」
摩耶花「そ、そうよね。流石にそれは冗談が過ぎるってもんだわ……」
5: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:07:59.72 ID:La4hkDje0
摩耶花「にしても、折木がねえ……。やっぱり信じらんない」
流石は摩耶花さん。もう落ち着きを取り戻した様子で、続けます。
摩耶花「これは天変地異の前触れに違いないわっ!」
える「そんな……、大げさですよ。花瓶を見たら、花を活けようと思うのは、ある種当然の成り行きです」
摩耶花「そりゃそうなんだけど……。な~んか、腑に落ちないのよねえ」
そこで会話は途切れ、しばしの沈黙が訪れました。
沈黙を破ったのは、摩耶花さんでした。
摩耶花「ねえ、ちーちゃん」
える「はい」
摩耶花「昨日さ、何かあった? ……その、折木の奴と」
今度はわたしが驚く番でした。
6: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:08:41.39 ID:La4hkDje0
える「えぇっ!? どどどど、どうしてですかっ!?」
声が裏返ってしまいました。
でもでも、摩耶花さんが来てからは、ニヤニヤしたりしてませんでしたし、気取られるようなことはしてないはずですっ!
そういえば以前、折木さんに言われたことがあります。
『お前は、思ってることがすぐ態度に出やすい』
昨日のことも、全部わたしの顔に書いてあったりしたんでしょうか?
摩耶花「やっぱり。て言うか落ち着いて! ちーちゃん」
摩耶花さんは、慌てふためくわたしを、必死になだめようとしてくれます。
そうです。とにかく落ち着かないと。
こういうときは、深呼吸です。
すぅーーー、はぁーーー、すぅーーー、はぁーーー、すぅーーー、はぁーーー。
摩耶花「どう? 落ち着いた?」
はい、何とか。
それでも、その言葉は声にはなりませんでした。
7: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:09:14.65 ID:La4hkDje0
える「……あの、摩耶花さん」
摩耶花「ん?」
える「どうして……、わかったんですか? わたし、そんなにわかりやすい性格してるでしょうか……」
摩耶花さんはニヤリと笑うと、うーん、と唸って天井を見上げました。
摩耶花「……何となく、ね」
える「え?」
摩耶花「ほんとに何となくなんだけどね。今日のちーちゃん、折木のことを話すとき、何だか熱の篭ったしゃべり方だったから」
える「……」
摩耶花「あとは、折木が『花を飾ろう』って言ったってのも、ポイントかな?
わたしには、折木が花瓶を見ただけで、『花を飾ろう』なんて言う奴には思えないんだ。
ここは折木の奴にも、何らかの心境の変化があったと見たわけね。
例えばだけど、照れ隠しに言った、とかいうなら、わからなくはないから」
……そう、そうです。確かに昨日、折木さんが花を飾ろうと言ったのは、その……、事後、でした。
流石は摩耶花さんです。よく人を見ています。
8: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:09:53.83 ID:La4hkDje0
摩耶花「で? で? 何があったの? まさか折木の奴に告白されたとか!?
……いやそれはないか。あの省エネ主義者が進んで色恋沙汰に精を出すわけないもんね。
え? 何? じゃあちーちゃんの方から迫ったの!? きゃーーー!!」
あの……。
摩耶花「……あ。ゴ、ゴメンね。何か白熱しちゃって。ちーちゃんが言いたくないなら、言わなくていいのよ。
無理には、訊かない」
そう言って摩耶花さんは、バツが悪そうに笑います。
わたしは、昨日のことを、摩耶花さんに話そうと思いました。
昨日、折木さんとしてから、わたしの胸の中に、かすかな“痛み”が同居を始めました。
嬉しくて、幸せで仕方ないのに、痛いんです。
放っておけば、忘れてしまいそうなくらい、小さなものでしたが、わたしはそれが、気になりました。
摩耶花さんに話すことで、少しは和らぐかもしれない。そんな期待がありました。
それに、摩耶花さんは自分の好奇心より、わたしの気持ちを優先してくれました。
『この人に話したいな』そう思わせてくれたんです。
9: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:10:32.87 ID:La4hkDje0
わたしと摩耶花さんは、並んで椅子に腰掛けました。
える「昨日の放課後は、部室にはわたしと折木さんの二人だけでした。
わたしが来たときは、既に折木さんがいて、いつも通り折木さんは、椅子に座って本を読んでいました」
摩耶花「いつもの光景ね」
える「はい。それでわたしが、たまには部室の整理をしようと言い出したんです。
折木さんは、最初は嫌がっていましたが、最終的には渋々ながらも、手伝ってくれたんです」
摩耶花「あいつもものぐさだからねー。ま、腰を上げただけでも上出来ね」
える「そのときに、この花瓶も出てきたんですよ。折木さんが見付けたんです。
そして整理整頓が終わって……。実は恥ずかしながら、そのあと何を話したのか、詳しくは覚えていないんです。
他愛のない、とりとめのない話をしました」
摩耶花「ふふっ。わかる。ちーちゃんたち、いつもそんな感じだもん」
える「そ、そうでしょうか。それで例によって、何か気になることがあったんでしょうね。
わたしが折木さんに、詰め寄ったんです。顔をこう、近づけて……。
最初折木さんは、文庫本に目を落としたまま、気のない返事をするばかりでした。
でもやがて、わたしのしつこさに観念した様子で、やっとこちらを向いてくれたんです」
摩耶花さんは何がおかしいのか、笑いを噛み殺した様子で、わたしの話を聴いています。
10: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:11:10.56 ID:La4hkDje0
える「そこからです。何だかいつもと調子が違ったのは。
そうです。折木さん、いつもはわたしの方を見ても、チラチラと視線を外すことが多いんですが、そのときは……」
摩耶花「?」
える「その、真っ直ぐわたしの眼を見つめて、話をしてきました。よっぽど自信があったんでしょうか。
とにかく、わたしも負けじと、折木さんの眼を見つめ返しました。気迫だけでも、負けてはいけないと思ったんです。
やがて折木さんの話は終わりましたが、わたしたちは、見つめ合ったままでした。
いえ、にらみ合っていた、といった方が正しいかもしれません。そうしてしばらく経ちました」
わたしは、話のラストスパートに向けて、ほうっ、と息を吐きました。
摩耶花さんも、もう笑うこともなく、真剣に話を聴いてくれています。
える「だんだん頭がぼうっとしてきました。多分折木さんもそうだったと思います。眼が虚ろでしたから。
何分くらい、そうしていたでしょうか。5分? 10分?
もっと長かったような気もしますし、本当はもっと短かったのかも知れません。
そして、わたし達は……」
摩耶花「ゴクッ……」
える「どちらからともなく、顔を寄せ合って、そ、その……。くち、唇と唇を、重ね合わせたんです……」
11: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:11:46.61 ID:La4hkDje0
こうして改めて思い返すと、顔から火が出そうです。多分今、わたしの顔は真っ赤でしょう。
える「その後は至って普通でした。そんなことがあったのに、わたしも折木さんも、何事もなかったかのように振舞いました。
帰り際、折木さんが言いました。そのときの会話だけは、何故だかよく憶えています。
『なあ、さっき花瓶が出てきただろ。あれに花でも活けたらどうだ?』
『いいですね。折木さん、どんなお花がいいですか?』
『千反田に任せる。俺は花に詳しいわけじゃないからな』
『わかりました。明日早速持ってきます。楽しみにしててくださいね』」
以上です。小さく言うと、摩耶花さんは。
摩耶花「そっか」
同じく小さく呟きました。
12: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:12:22.92 ID:La4hkDje0
摩耶花「ちーちゃんは、折木のことが好きなのね」
える「……」
……そう、なんでしょうか。いえ、そうなんでしょうね。
折木さんとキスをしたことが嬉しくて、舞い上がってしまったわたし。
もとより客観的に見れば、明らかなことでした。
摩耶花さんにお話ししたことで、わたしの、折木さんへの気持ちが、はっきりと、形を成していくようです。
と、同時に、胸の痛みが大きくなっていって……、わたしは……。
摩耶花「ちーちゃん? 泣いてるの?」
泣いてません。返事は、嗚咽で言葉になりませんでした。
える「ふっ、ふえええぇぇっ、うわあああぁん」
摩耶花さんは、黙って肩を抱いていてくれました。
13: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:12:56.77 ID:La4hkDje0
える「おっ、お見苦じいところを、ひくっ、お見せしましたぁ」
摩耶花「ううん。ほら、涙拭いて」
そう言って、摩耶花さんは、ハンカチを差し出してくれました。
ありがとうございます。―――――ちーーーん。
える「………………、ふぅ」
泣いたことで、わたしの心は晴れやかでした。いつの間にか、胸の痛みも消えていました。
える「すみません、摩耶花さん……。ハンカチ、洗ってお返ししますね」
摩耶花「落ち着いたみたいで、よかった。どう? スッキリしたでしょ」
える「はい、とても」
摩耶花さんは、優しい笑顔を向けてきました。わたしも、笑顔で応えました。
14: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:13:26.09 ID:La4hkDje0
わたしは、折木さんのことが、好きです。
昨日のことは、わたし、一生忘れないでしょう。そして、今日のことも。
摩耶花「……さてと、それじゃ、わたしそろそろ」
える「え、もうお帰りですか?」
摩耶花「うん。このまま折木が来たら、なんか色々言いたくなっちゃいそうだし。それに……」
える「?」
摩耶花「ううん、何でもない。それじゃあね、ちーちゃん!」
える「さようなら、摩耶花さん」
そうして摩耶花さんは、元気よく部室を出て行きました。
……と思ったら、ヒョイと顔だけ覗かせて。
摩耶花「……あいつも、ちーちゃんのこと、好きだと思うな。言っとくけど、気休めじゃないから。じゃ、頑張ってね」
わたしは、自分の頬が染まるのがわかりました。
15: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:14:08.33 ID:La4hkDje0
その日の放課後、俺は図書室にいた。
といっても、特に用があったわけではない。何となく、古典部には足が向かなかったのだ。
……いや、何となくではないな。俺は自嘲気味に笑う。
決まっている。原因は昨日の千反田とのことだ。
バカなことをした、とは思わないが、何であんなことをしたのか、とは思う。
俺は百科事典のページを繰った。
……昨日。俺は、二人きりの部室で、千反田とキスをした。
千反田が迫ってきたわけではない。かといって、俺から求めたわけでもない。
何故だかそんな雰囲気になったので、どちらからともなく、というのが正しい。
昨日の、その後の様子から察するに、千反田は別に怒ったり、悲しんだりはしていないだろう。
というか、いつも通りだった。まったくいつもと変わることなく、俺と接していたのだ。
そのことが、今になって、俺の心をざわつかせている。
16: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:14:35.96 ID:La4hkDje0
いや、でもそれは、俺の望むところではないのか?
今どき、キスひとつで、惚れた腫れたでもあるまい。
何より俺は、自分の信条として、省エネ主義を掲げている。その心は。
『やらなくてもいいことなら、やらない。やらなければいけないことなら手短に』
キスしたからといって、何か変わらなきゃいけないことも、しなけりゃならないことも、ないのだ。
それは千反田だって同じだ。千反田は俺のように、省エネ主義を信奉しているわけではない。
だが、世間一般的に言っても、それは同じことだろう。
人は、変わりたければ変えようとするものだし、きっかけがあれば、変わっていくものだろう。
同じように、きっかけがあっても変わらないことも、いくらでもあるのだ。
千反田の態度は、そのことを雄弁に物語っている。
17: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:15:16.66 ID:La4hkDje0
俺はまた笑った。
俺は変わりたいのか? 何かを変えたかったのだろうか?
神山高校に入学して、俺は古典部に入り、千反田と出会った。
それ以来、いくつかの事件に遭遇し、自分で言うのもなんだが、俺はそれらの事件の解決に、主導的な役割を果たした。
それらは、まったく、やらなくてもいいことに違いなかった。
結果だけ見れば、俺は自分の主義に、大いに反し続けている。
だが事件の陰には、いつも千反田がいた。
不思議なことだが、千反田がいたから、もっと言えば、千反田の為に俺は事件に挑み続けたのだろうか。
18: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:15:49.38 ID:La4hkDje0
顔を上げ、息を吐くと、里志と目が合った。
奴は、頭を掻き、ニコニコ笑みを浮かべて、近づいてくる。
こいつ、さては今まで、俺を観察していたな?
里志「やあ、ホータロー。辞典を眺めながら、独りでニヤニヤするのは、いい趣味とは言えないね」
奉太郎「やっぱり見ていたのか……。お前こそ、趣味が悪いな」
里志「ゴメンゴメン。悪いとは思ったんだけどね、面白かったんで、つい、ね」
まったく、見世物じゃないぞ、と呟きながら、ふと、さっき思ったことを訊いてみる気になった。
奉太郎「なあ、里志。お前はこの一年で、俺が何か変わったと思うか?」
里志は、一瞬きょとんとしたが、すぐに元の顔に戻って言った。
里志「う~ん、正直ね、この一年で、ホータローに意外と思わされたことは何度かあったよ。
でもホータローはやっぱりホータローだよ。基本的には変わってないね」
奉太郎「そうか……」
19: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:16:17.61 ID:La4hkDje0
里志「何だい? 千反田さんと何かあったのかい?」
ぐっ、鋭い奴め。
奉太郎「いや、何かってわけじゃない……」
あいまいな返事をする。
奉太郎「お前はこれから古典部に?」
里志「いや、今日は別の用事があるんだ。と言っても、急ぎじゃないから、親友の生態観察に勤しんでいたわけさ」
奉太郎「お前は、伊原の観察でもしてろよ」
里志「ハハハ、それは勘弁。そう言うホータローこそ、部活には行かないのかい。
外はこんなに晴れてるのに、帰りもせず、部活にも行かないなんて、ホータローらしくないじゃないか」
奉太郎「たまには、蓄えられた知を取り込む行為も、悪くないと思ってな」
里志「そうかい。ま、したいことをするのが、一番いいよ。
それじゃ、僕はそろそろ行こうかな……」
見送ろうと、手を上げようとすると、思い出したように里志が言った。
20: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:17:02.19 ID:La4hkDje0
里志「そう言えば登校するとき、千反田さんを見かけたんだけど、手に花束を持っていたな。
あれ、どうしたんだろう」
ああ、それはな、と言いかけたところで言葉を飲み込む。
本当に持ってきたのか。確かに、今日持ってくると言っていたが……。
いや、千反田はちょっとしたことでも、いい加減なことを言う奴ではない。
今日持ってくると言ったら、最初からそのつもりだったのだろう。
里志は、そんな俺の様子を見ていたが、やがて言った。
里志「じゃ、行こうかな。ホータロー、考え事もいいけど、たまには自分の思う様生きてみるのもいいんじゃないかな。
それじゃあね!」
奉太郎「ああ、じゃあな」
どうやらお見通しだったようだ。俺も、人のことは言えないかも知れないな。
21: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:17:40.93 ID:La4hkDje0
奉太郎「さて、どうするか……」
とは言ったが、答えはもう、決まっているようなものだった。
古典部に行こう。
……もう少し、自分の考えをまとめてから。
里志はさっき、『自分のやりたいことをやれ』というような意味のことを、言った。
やりたいこと。
俺の生活信条には、登場しない言葉だ。
しかしだからといって、俺は全ての事柄を、やらなくていいことか、やらなければいけないことか、で処理してきたわけではない。
伊原や里志が、よく俺のことを、『何の趣味も目的もない、つまらない男』のように言うことがあるが、それは全面的には正しくない。
ちなみに里志の場合は、半分冗談だが、伊原は本気で言っているかも知れない。
だが俺とて、人生に何の楽しみも感じていないかといえば、そうではない。
22: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:18:10.06 ID:La4hkDje0
趣味は強いて言えば、読書がそうだと言えるだろう。
テレビや映画は観るし、音楽だって聴く。
それに学校で、部活動にも入っている。
美味いものを食べれば、美味いなと思うし、四季の移り変わりや、風景に趣を見出したりもする。
この一年で関わった事件だって、千反田のせいにするのは簡単だが、最終的には俺がそうしようと思ったから、関わったのだ。
昨日のことだってそうだ。多少雰囲気に流された感はあるが、俺は千反田と、キスがしたいと思ったから、した。
そう。やりたいことだったから、やったのだ。
そして今、俺は千反田に会いたいと思っている。千反田は、まず部室にいるだろう。ならば俺も、部室に行けばよい。
しかしそこで、俺の心は再びざわついた。
その正体に、俺はもう気付いていた。
23: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:19:03.23 ID:La4hkDje0
俺が、いくら千反田とキスをしたいからといって、いくら会いたいからといって、千反田にその気があるとは限らない。
昨日は偶然そうなっただけだ。現に昨日の、その後の千反田の態度は、芳しいものではなかった。
あれは、俺と気まずくなるのを避けていたのだろうと思える。
俺はみたび笑った。
ここまで来ると、もう認めざるを得ないだろう。
俺は、千反田えるのことが、異性として気になっているようだ。好きと言っても、いいかも知れない。
だから千反田に、そのことで拒絶されるのが、怖かったのだ。
けど、別にそれでいいじゃないか。
千反田が、俺のことをどう思っていようと、俺が千反田に会いたいと思うことには、何の関係もない。
もちろん、千反田の意思を無視してまで、自分を押し通すことはしないが。
千反田は、いつものように、接してくれるだろう。
24: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:19:32.32 ID:La4hkDje0
俺は百科事典を、元の棚に戻してくると、カバンを肩に掛けた。
確かに、千反田が俺の気持ちを受け入れてくれるなら、それはどんなにか嬉しいことだろう。
しかしそのためには、兎にも角にも、千反田に会わなければ始まらない。
幸い俺は、千反田に会いたいと思っている。ならばもう、迷うことは何もない。
自分のしたいことを、するだけだ。
そうして俺は、この後千反田に会ったときの会話を、頭の中でシミュレートするのだった。
25: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:20:15.10 ID:La4hkDje0
ガラガラ
部室のドアを開けると、千反田はそこにいた。
少しホッとする。
だが千反田は、俺がドアを開けると同時に、顔を背けて窓辺の方に行ってしまった
26: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:20:45.94 ID:La4hkDje0
なんだろう? と、少しいぶかしげに思うが、俺の目はそこで机の上の花瓶と、それに活けられた花に向く。
奉太郎「へえ、いいじゃないか」
える「えっ?」
奉太郎「花、飾ったんだな」
える「あ、ああ、そうですね。ありがとうございます」
27: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:21:29.21 ID:La4hkDje0
千反田は、顔を窓の外に向けたまま、答えた。
なんだ? やっぱり様子がおかしい。
……昨日のことを、気にしてるのか?
奉太郎「なあ、千反田」
える「はい」
28: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:22:10.18 ID:La4hkDje0
千反田は、やはり顔を俺の方に向けることなく、答えた
……何てこった。
昨日あの後普通だったから、大丈夫だと思ってたのに。
千反田は明らかに機嫌を損ねている。
おれは、暗澹たる気分になった。
29: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:22:49.06 ID:La4hkDje0
とりあえず、いつもの椅子に腰掛ける。
正直、どうしていいものか、分からなかった。
それにしても、千反田に冷たくされるのが、こんなに堪えるとは思わなかった。
謝るべきだろうか?
30: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:23:28.35 ID:La4hkDje0
奉太郎「あ、あのな……」
ダメだ! 声が震えているのが自分でも分かる。
だが言わねば。
奉太郎「昨日は、その、なんと言うか、す、すまなかった」
える「……」
31: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:24:05.42 ID:La4hkDje0
奉太郎「突然あんなことされたら、そりゃお前でも怒るよな。
俺がバカだったんだ。こんなこと言うのはムシが良すぎると、自分でも思う。
昨日のことは忘れて、その、今まで通りに振舞ってくれないか?
もうあんなことはしない。約束する」
える「!」
言ったぞ。これで許してくれるかは、千反田次第だが……
32: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:24:39.30 ID:La4hkDje0
千反田の方を向くと、肩が震えている。
何だ? 笑っているのか?
と、突然千反田は、振り向きざま俺の横を、走ってすり抜けようとする。
奉太郎「まっ、待ってくれ!」
俺は反射的に、千反田の手首を掴んだ。
33: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:25:15.47 ID:La4hkDje0
える「離して! 離してください!」
違う
今分かったが、千反田は笑っていたのではなかった。
千反田は泣いていた。
奉太郎「な、何で泣くんだ」
える「……折木さんには関係のないことです」
34: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:25:52.90 ID:La4hkDje0
奉太郎「ばっ、関係ないことあるか! 俺が……、俺が昨日バカなことをしたから……」
千反田は俯いたまま、かぶりを振る。
える「それ以上言わないでください……」
奉太郎「と、とにかく俺の話を聴いてくれ!」
える「ごめんなさい、ダメなんです」
35: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:26:32.18 ID:La4hkDje0
奉太郎「分かった、分かった。とりあえず涙を拭いてくれ。
それと、頼むから逃げないでくれ。
お前が俺の話を聴きたくないっていうなら、俺がお前の話を聴くから」
える「うっ、うっ、うわあああん」
千反田はその場に泣き崩れてしまった。
俺はその様子をただ呆然と、見ていることしか出来なかった。
36: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:27:02.98 ID:La4hkDje0
ひとしきり泣いて、千反田は少し落ち着いたようだった
それにしても、この場に里志や伊原がいないで良かったと思った
まるで痴話喧嘩だ。何を言われるかたまったもんじゃない。
える「……その、ごめんなさい。取り乱してしまって」
奉太郎「いや……、いいんだ。悪いのは俺だからな」
37: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/11(火) 20:27:47.87 ID:La4hkDje0
える「いいえ、折木さんは何も悪くありません。
全てわたしの問題ですから」
そういうと、千反田は、今日初めての笑顔を俺に向けた。
だが、その表情は相当無理をしているのがありありだった。
そしてそのまま、しばしの沈黙が訪れた。
38: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:28:22.40 ID:La4hkDje0
沈黙を破ったのは、千反田。
える「その、どこから話したものか……」
奉太郎「なあ、千反田。俺にはよく分からないんだが、お前の問題とはどういうことだ?
お前は、昨日のことで怒ってたんじゃないのか?」
千反田は一瞬きょとんとして、言った
える「いいえ、怒っていませんよ。そもそもあれは、折木さんが一方的に、無理やりしたことではないですから」
39: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:29:08.01 ID:La4hkDje0
確かにそうだ。だが怒ってないって?
奉太郎「じゃ、じゃあ何でさっき俺が部室に入ってきたとき、俺にそっぽを向いてたんだ?
俺は、てっきり……」
そう言うと、千反田は俯いた。
える「……わたしの身勝手で、折木さんを傷つけてしまっていたんですね。
本当に、ごめんなさい」
40: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:29:42.06 ID:La4hkDje0
はあ? ますますわけが分からない。
千反田はかすかに頬を染めて言った。
える「その、さっき折木さんの方を向かなかったのは、な、泣きあとを見られたくなかったからです!
どうして泣いていたかについては、すみません、黙秘させてください」
ペコリと頭を下げる千反田。
奉太郎「え? 泣いていたのは、今だろう?」
41: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:30:17.86 ID:La4hkDje0
すると千反田は、ますます頬を染めた。
える「いえ、その、さっき折木さんが来る前に少し泣いていたんです……
あの、これ以上は……」
ああ、そういうことか。千反田は俺が来る前に泣いていて、俺が来たときにはまだ腫れていた泣き顔を見られたくなかったということか。
それで俺の方を向かなかったのか。
やっと得心する。
42: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:30:50.05 ID:La4hkDje0
いや、まだだ。まだ最大の謎が残っている。
奉太郎「それじゃあ、最後の質問だ。
どうして俺が昨日のことを謝ったら泣き出したんだ?
正直わけが分からなくて、戸惑ってるんだ」
いつの間にか、俺が千反田を問い詰める形になっているが、気にしない
俺は真実が気になるのだ。
43: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/11(火) 20:31:40.48 ID:La4hkDje0
千反田はそこでまた、顔を曇らせた。
胸が少し、チクリと痛んだ。
える「それは……。
あの、どうしても言わなきゃダメですか?」
俺は黙って頷く。千反田には酷な話なのかもしれないが、このままにはしておけない。
千反田は諦めたように溜め息を吐くと、言った。
える「わかりました。お話します」
44: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:32:21.34 ID:La4hkDje0
生唾を飲み込む。二人の間に緊張が走る。
える「わたしが泣いたのは……、わたしが折木さんのことを好きだからです。
折木さんの言葉が、悲しかったからです!」
千反田はまた泣いていた。
える「……バカなことじゃ、ないです。わたし、折木さんとキスしたことが嬉しくて、
ひくっ、それなのにもうしないって言われて、悲しくて、我慢できなくて、
うううっ」
俺は今度こそ自分の愚かさを呪った。
45: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:35:09.33 ID:La4hkDje0
何てことだろう。俺は自分のことしか考えていなかった。
決して望んだことではなかったのに。
俺がしたことは、目の前の少女を泣かせ、あまつさえ、秘めていた心の内を白日の下に曝け出すことだった。
なんて馬鹿野郎なんだ、なんて……。
俺は泣きじゃくる千反田と向き合って、呆然とすることしか出来なかった。
46: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします 2012/09/11(火) 20:35:48.81 ID:La4hkDje0
10分ほど経った。
俺はまだ呆けていた。
千反田は既に泣き止み、今は鼻をかんでいた。
その表情がどこか晴れやかだったのがせめてもの救いだろうか。
千反田は俺に向き直ると、今度は明るい笑みを浮かべて言った。
える「あの、折木さん。本当に折木さんが気にすることはないんですよ。
最初からわたしの心の問題なんですから。
ちょっと悲しかったけど、もう大丈夫です。
ですから、その、わたしと今までと変わらず接してくれませんか。
この上他人行儀になられては、それこそわたし、立ち直れなくなっちゃいますから」
あくまで冗談めかして言う千反田。
俺は……。
47: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:36:31.80 ID:La4hkDje0
奉太郎「すまん、千反田。やっぱり俺は馬鹿だった」
える「折木さん、それは……」
奉太郎「いや、言わせてくれ。本当に自分でも呆れるくらいなんだ。
折木奉太郎は大馬鹿野郎だ。それこそ里志なんか足下にも及ばないほどだな」
おどけて言ったので、千反田はクスリと笑う。
える「はい、そういうことにしといてあげます」
48: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:37:33.58 ID:La4hkDje0
奉太郎「さっきお互い、今まで通り付き合おうって言ったな。
あれは無しだ」
途端千反田の顔が曇る。
ここからが肝要だ。
奉太郎「いや、そんな顔をするな。今までの付き合いを基に、新しい関係を築こうって言ってるんだ」
千反田が首を傾げる。
える「あの、それはどういう……?」
奉太郎「本当はお前に言わせるつもりはなかったんだけどな。
俺の話も聴いて欲しい。
千反田、俺はお前が好きだ。よかったら俺の彼女になってくれないか」
千反田は首を傾げたまま固まった。
奉太郎「その、な。俺のような馬鹿な男に愛想が尽きていなければ、の話だが」
49: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:38:12.29 ID:La4hkDje0
見ると千反田は深呼吸をしている。
何やってるんだ、と言おうと思ったら千反田が先に口を開いた。
える「本気、ですか?」
奉太郎「冗談でこんなことは言わない」
すると千反田の瞳が見る間に潤んで……。
困った。千反田は目の前で泣いている。
これは嬉しくて泣いているんだよな?
そう訊くこともできず、俺はオロオロする。
50: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:38:43.82 ID:La4hkDje0
本当なら、胸でも貸すべきなのだろうが、それはすごく照れ臭い。
ええい。俺は千反田の両肩を掴んだ。
奉太郎「ちっ、千反田! その、俺は……」
千反田は泣きながら、何度も頷く。
よかった。拒絶されてるわけではないようだ。
そう思うと肩の力が抜け、俺はごく自然に千反田の肩を抱いた。
51: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:39:16.57 ID:La4hkDje0
しばらく経って、千反田は泣き止んだが、まだ俺の腕の中にいた。
このまま放してしまうのは、何だかもったいない気がする。
俺は少し千反田を抱く腕に力を込める。
すると千反田もその腕を俺の胴に回してきた。
ううっ。女の子と抱き合うってのはこんなにゾクゾクするものなのか。
俺達はしばらくそのままで、夕暮れの部室に佇んでいた。
52: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:39:50.67 ID:La4hkDje0
そろそろ下校しようかというときになって、千反田が言った。
える「ねえ、折木さん。キス、しませんか?」
奉太郎「はあっ!?」
思わず声が上ずってしまった。いきなり何を言い出すんだ、こいつは。
える「いやですか?わたしは、したいです」
いやではない。決していやではないのだが。
奉太郎「夕日が綺麗だな」
える「折木さんっ!」
千反田が上目づかいで睨んでくる。
奉太郎「分かった、分かったよ。じゃあしようか」
千反田が嬉しそうに忍び寄ってくる。
俺はエネルギー消費の少ない人生に心の中で敬礼した。
二度目のキスは、涙の味がした。
53: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 20:41:10.26 ID:La4hkDje0
ここまでが前回の分
ご飯の時間なので、新しいのはまた後ほど投下します
54: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(大阪府) 2012/09/11(火) 20:43:44.02 ID:awrPLp0yo
おつ
いってらっしゃい
57: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:25:43.49 ID:La4hkDje0
その夜、わたしは自分の部屋の窓から、星を眺めていました。
もう春ですが、夜ともなると、まだ結構風が冷たいです。
える「はぁ……」
今日は色々なことがありました。
摩耶花さんに、好きな人の話をしました。
折木さんと、ちょっとした言い合いをしました。
少し……、たくさん、泣きました。
そして……、そして……。
いけませんいけません! あのことを思うと、どうしても顔がにやけてしまいます。
誰も、見ていませんよね……?
58: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:26:56.84 ID:La4hkDje0
わたしは、顔を横に振って、元の顔を取り戻します。
……だ、ダメです。にやけずにはいられないです。
……だって、だって折木さんが、わたしのことを好きだって……。
……わたしに、か、かの、彼女になって欲しいって……。
もっとも、そこに至るまでには、紆余曲折あったのですが……。
でも、もうそんなことは、どうでもいいんです。
改めて、わたしは折木さんのことが好きです。
わたしの胸の中には、折木さんへの想いが溢れて、穏やかで、幸せな気持ちでいっぱいでした。
今夜はよく眠れそうです。
える「おやすみなさい……」
わたしは、誰へともなく声を掛けると、布団をかぶりました。
59: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:27:48.46 ID:La4hkDje0
夜。風呂から上がると、俺は自分の部屋で、今日のことを反芻していた。
今日、俺は千反田に自分の気持ちを伝え、千反田はそれを受け入れてくれた。
もっとも、最初に言ったのは千反田の方だったのだ。
俺の至らなさのせいで、千反田に言わせてしまった。
それを聞いて、俺だけ言わずにいることは出来なかった。
奉太郎「……彼女、か」
今日、俺と千反田の関係は、新たな局面を迎えた。
それはとりもなおさず、俺の省エネ生活に変化の節目が訪れている、ということでもあった。
今日の、千反田とのキス以来、俺を不思議な高翌揚感が包んでいる。
俺は、変わらなければならない。
60: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:28:36.22 ID:La4hkDje0
奉太郎「ははっ」
変わる? 俺が?
そんなこと、出来るのだろうか。
この省エネ主義の権化たる、折木奉太郎が変わるだって?
だが千反田の為なら、あるいは、と思った。
こんな気持ちは、前にも感じたことがある。
そう、あれは千反田に傘を差した、生き雛まつりのときだったか……。
まぁ、焦る必要はないよな。必要とあらば、ゆっくりと変わっていけばいいんだ。
きっかけは訪れた。あとは俺と千反田次第だ。
喉が渇いたので、俺は何か飲み物を探しに、台所へ下りて行った。
61: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:29:42.19 ID:La4hkDje0
次の日の朝、わたしは、いつもより少し早く登校して、正門前に立ちました。
もちろん、折木さんが来るのを待つためです。
特に用事があるわけではないのですが……。
一刻も早く、折木さんに会いたかったのです。
折木さんは、こういうこと嫌がるかな、とも思ったのですが、自分の気持ちを優先しちゃいました。
……少しくらいなら、許してくれますよね?
だんだんと、登校してくる生徒が増えてきました。
あっ、あれは摩耶花さんです。
62: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:30:47.37 ID:La4hkDje0
摩耶花「おっはよー、ちーちゃん」
える「おはようございます、摩耶花さん」
摩耶花「ね、ね。昨日はあれから何か進展あった?」
える「ええ。そ、その……」
人目もあるので、言いよどんでしまいます。
摩耶花さんは、そんなわたしの様子で察してくれたのか。
摩耶花「うん。じゃ、また今度訊くから。絶対聞かせてよね!」
摩耶花さんには、昨日お世話になったので、是非お話ししたいです。あっ、もちろん福部さんにも。
える「はい、必ず」
摩耶花「折木の奴待ってるんでしょ。じゃあね!」
ズバリ言い当てられ、わたしは紅くなってしまいました。
63: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:31:37.77 ID:La4hkDje0
始業10分前。折木さん、まだ来ません……。
もしかして、わたしより先に登校しているのでしょうか?
……いえ、今までの経験から言って、それは多分ないでしょう。
でも、もう来ていてもいい頃なんですが……。
始業5分前。流石にもう限界です。これ以上待っていたら、遅刻になってしまいます。
そう思って、靴箱に向かおうとしたとき、正門に向かって、走ってくる人影が見えました。
あれは……、福部さんです! 福部さんはわたしに気付くと、走るスピードをさらに上げました。
64: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:32:34.63 ID:La4hkDje0
里志「おはよう、千反田さん。ハァ、ハァ、どうしたの? こんなところで。ハァ、ハァ……」
える「おはようございます、福部さん。その……」
福部さんは、ニンマリと笑みを浮かべると。
里志「ははあ、ホータローだね? あれ、まだ来てないの? 遅刻かな。しょうがないよね、ホータローもさ」
うう、福部さんまで……。
里志「さっ、千反田さん。僕たちまで遅刻しちゃ、シャレにならないよ」
そうでした。
える「急ぎましょう! 福部さん!」
こうしてわたしたちは、2年の教室へ走るのでした。
65: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:34:06.91 ID:La4hkDje0
昼休み。わたしは、折木さんの教室を訪ねるべきか、少し悩んでいました。
あれから折木さん、学校へ来たのでしょうか? 気になります。
そうこうしていると、(千反田さん)。わたしを呼ぶ声が聴こえました。
教室の出入口を振り向くと、福部さんが立っていました。
える「どうしたんですか? 福部さん」
里志「うん、さっきホータローの教室に行って訊いてきたんだけどね。
ホータロー、今日は病欠みたいなんだ。なんでも、風邪を引いたらしい」
える「まあ」
66: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:35:58.22 ID:La4hkDje0
里志「うん、用事はそれだけなんだけどね。千反田さん、ホータローのこと気にしてたみたいだったから。
える「うう……」
わたしの顔は、紅く染まりました。
里志「アッハハ、ホータローも果報者だよね。こんなに千反田さんに想われてさ」
える「も、もう、福部さん!」
里志「うんうん、それじゃあね。千反田さんも風邪には気を付けてね」
える「あっ、あの、福部さん。ありがとうございました」
わたしはお辞儀をして、お礼を言いました。
福部さんは、手をヒラヒラさせて去っていきました。
それにしても風邪、ですか。折木さん、大丈夫でしょうか?
そのとき、わたしの頭に閃くものがありました。
67: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:38:00.98 ID:La4hkDje0
ピピピピッ ピピピピッ
奉太郎「37度7分か……」
朝に比べれば、熱はだいぶ下がった。気分も、ずいぶん楽になった気がする。
とは言え、まだ結構あるな。まあ、寝ていれば、夜までには治りそうだ。
喉が渇いた。何か冷たいものを飲もうと、ベッドから這い出して、階下に下りる。
スポーツドリンクを飲みながら、時計を見る。
奉太郎「もう4時半か……」
さて、もう一眠りするか。と思ったところで、『ピンポーン』。玄関のチャイムが鳴った。
何だ? 客か?
今、家には俺しかいない。出ないわけにもいかないだろう。
俺は玄関に向かい、
奉太郎「はい、どちら様ですか?」
そう言いながら、迂闊にもドアを開けた。
68: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:40:21.82 ID:La4hkDje0
一瞬状況が飲み込めなかった。
ドアを開けると、千反田が立っていたのだ。
ん? 何で千反田が俺の家にいるんだ?
千反田はペコリとお辞儀をすると、言った。
える「こんにちは、折木さん。お加減いかがですか?
ちょっと心配だったので、お見舞いに伺いました」
奉太郎「ああ……」
そうか、見舞いに……。何だか嬉しかったが、そんなことはおくびにも出さない。
おっと、いかん。
奉太郎「そうだったか。まあ、せっかくだから上がっていってくれ。何も出せないけどな」
える「はい。それでは、少しお邪魔しますね」
69: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:42:10.51 ID:La4hkDje0
とりあえず、千反田をリビングに招き入れる。
える「お家の方はいらっしゃらないんですか?」
奉太郎「姉貴は大学、親は仕事だ。さっきまでずっと寝てたところだ」
える「顔色は良さそうですね。……」
千反田の白い手が伸びてくる。不覚にもドキッとしてしまった。手はそのまま、俺の額に当てられた。
ひんやりして気持ちいい……。
える「……でもまだ少しありますね。安静にしていた方がいいでしょう」
奉太郎「少しくらい平気さ。これでも朝に比べれば、ずいぶん良くなったんだ」
える「でも、油断は大敵です。わたし、何かして上げられないかと思って来たんですけど……」
その気持ちだけでも嬉しい。もちろん口には出さなかったが。
70: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:44:02.48 ID:La4hkDje0
える「そうです! 折木さん、お腹は空いていませんか?」
実は、朝から何も食べていないので、かなり空いている。だが……。
える「よろしければ、何かお作りします!」
近い、近いぞ千反田。風邪がうつったらどうするつもりだ。
俺は横を向いて咳払いし、言った。
奉太郎「実のところ、かなり空いているんだが……。その、いいのか?」
える「はい! そのために来たんですから!」
奉太郎「わかった。じゃあお願いする」
千反田は、パァッと顔を輝かせた。
俺は、簡単に食材や調理器具、食器の場所の説明をした。
71: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:46:09.24 ID:La4hkDje0
える「それでは、折木さんはお布団で寝ていてください。出来上がったら、お持ちしますから」
奉太郎「ん、わかった」
それにしても、千反田はやたらと嬉しそうだ。
こちらとしても、千反田の機嫌がいいのなら、それに越したことはない。
俺は足取りも軽く、階段を上っていった。
ベッドに潜り込み、俺は少しまどろみながら、千反田のことを思っていた。
まさか千反田が、見舞いに来てくれるとは。おまけに飯まで作ってくれるなんて。
正直、ありがたさが身に染みる。彼女っていいものだ。
いや、千反田は彼女だからじゃなく、千反田だから見舞いに来てくれたのかも知れない。
同じ古典部仲間なのに、里志や伊原とはえらい違いだ。
もっとも里志が見舞いに来ても、あまり嬉しくはないな……。
72: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:48:13.81 ID:La4hkDje0
トントントン……。
誰かが階段を上がってくる音が聞こえる……。
おっと。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。
俺はベッドから抜け出して、部屋のドアを開ける。
奉太郎「千反田、こっちだ」
千反田は俺の姿を認めると、嬉しそうに駆け寄って……、は来なかった。
手にはお盆を持っている。駆けて来たら危ない。
える「失礼します……」
千反田は少し遠慮がちに、俺の部屋に入ってきた。
73: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:50:14.41 ID:La4hkDje0
える「ここが折木さんのお部屋ですか……」
千反田は、物珍しそうにキョロキョロしている。
別に、見られて困るような物は置いていないが、あんまり見られると恥ずかしい。
奉太郎「な、なあ千反田……」
える「ああっ、すみません! ……えーと、お粥です。
お供も3種作りましたので、お好みでどうぞ」
奉太郎「ああ……、それじゃあ」
早速手をつけようとすると。
える「あの……、よかったら、わたしが食べさせてあげましょうか?」
奉太郎「……」
それはつまり。
奉太郎「い、いや、いい。大丈夫だ。自分で食う。断固辞退する。い、いただきます!」
える「そうですか……」
千反田は少し残念そうだった。
74: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:52:45.85 ID:La4hkDje0
千反田のお粥は、たいそう美味いものだった。まさかお粥がこうも美味いとは。
千反田、侮り難し。流石農家の娘。
千反田は、さっきから俺の食べる様を、キラキラした瞳で見つめてくる。
奉太郎「……欲しいのか?」
える「いえ、そういう訳では」
俺は少し考えて、言った。
奉太郎「美味いよ。流石だな」
える「あ、ありがとうございます!」
千反田はホッとした表情を見せた。そういうことだったか。
75: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:54:57.60 ID:La4hkDje0
奉太郎「ごちそうさま」
える「お粗末様でした。それじゃ、片付けてきますね」
奉太郎「ああ、そのままで構わないぞ?」
える「いいえ、そういうわけにはいきません。すぐ片付けてきますから」
そう言うと、千反田は食器を再びお盆に載せて、台所へ下りていった。
奉太郎「あーーー」
俺は伸びをした。退屈だ。千反田がいるのにいない時間がこうも退屈とは。
もはや俺は、千反田無しでは生きられない体になってしまったようだ。
などと、くだらないことを考えていると。
トントントン……。
お、来た来た。
76: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:56:56.69 ID:La4hkDje0
カチャ……。
ドアが開き、千反田が少し控えめに顔を覗かせた。
える「折木さん、起きてます?」
奉太郎「ああ、起きてる。入れよ」
千反田は、部屋に入ってくると、ベッドの横にちょこんと腰掛けた。
える「折木さん……」
千反田が突然、神妙な面持ちになる。
なんだろう? 俺の背筋が自然と伸びる。
千反田は、そのまま顔を近づけてくる。おい、これは。
まさか。待て千反田。だが言葉が出ない。
その間にも千反田の顔はどんどん近づいてくる。
既に、千反田の狭いパーソナルスペースの内側に入っている。俺は反射的に目を閉じた。
77: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 21:58:55.58 ID:La4hkDje0
次の瞬間。
額に冷たいものがピトッと触れた。
あ……、気持ちいい……。
える「うーん、やっぱりまだ少しありますね……」
千反田の声が、すぐ近くから聴こえる。
ほどなくして、千反田の額は、俺から離れていった。
奉太郎「あ……」
おっと。名残惜しさに、つい声が漏れてしまった。
える「では折木さん。熱が引くまで、安静にしていてくださいね」
奉太郎「あ、ああ」
78: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:00:54.44 ID:La4hkDje0
千反田が首を傾げる。
える「今の折木さん、何だかずいぶん慌てていたように思います。どうしてですか?」
うっ、来たか。
奉太郎「ああ、時間も大分遅くなったな。そろそろ帰らないと、家の人が心配するんじゃないか」
える「話を逸らさないでください。どうしてですか? わたし、気になります」
奉太郎「気にするな。ちょっとした、若気の至りってやつだ」
える「若気の至り……。うーん……」
千反田は考え込んでいる。いいぞ。そのまま気付くな。―――だが。
千反田は、わかったと言うように、あっ、と顔を上げる。
そして、嬉しそうに言った。
える「もしかして……、キス、されるって思っちゃいました?」
79: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:02:55.30 ID:La4hkDje0
ズバリ、言い当てられ、俺は顔が紅くなるのを感じた。くそー、千反田のくせに。
奉太郎「知らんっ。もう寝るっ」
俺は頭から布団を被った。千反田のクスクス笑う声が聞こえる。
える「あの、折木さん。……しますか?」
俺は飛び起きた。
奉太郎「何だって?」
える「ですから、その……、キス……、……しますか?」
今度は千反田が紅くなって俯いてしまう。
奉太郎「……いや、お前に風邪をうつすわけにはいかないしな」
える「少しくらいなら、大丈夫だと思います。それに……」
それに?
える「……それに、折木さんのなら、わたし、うつっても平気です……」
奉太郎「……」
80: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:04:54.93 ID:La4hkDje0
こ、こいつは……。恥ずかしい台詞を臆面もなく……。俺の方が恥ずかしくなるじゃないか。
奉太郎「いや、やっぱり止めとこう。本当にうつしたくないんだ。
俺が治ったら、その、しようか」
千反田は少し残念そうに笑った。
える「はい、お気遣いありがとうございます」
える「それじゃ、わたしそろそろ帰ります」
奉太郎「ああ、玄関まで送るよ」
える「そんな、折木さんは寝ていてください」
奉太郎「いや、送る。少しくらい大丈夫だ」
える「でも……」
押し問答の末、千反田が折れた。
81: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:06:54.16 ID:La4hkDje0
える「それじゃ、お邪魔しました」
奉太郎「ああ、気を付けて帰れよ」
える「折木さんもお大事に。では、失礼します」
千反田が、玄関のドアから門のところまで歩いてゆく。
その後姿に、俺は声を掛けた。
奉太郎「千反田!」
千反田が振り向く。
奉太郎「今日は来てくれて助かった。その、嬉しかったよ。ありがとう」
千反田はにっこり微笑んだ。
える「はい、明日は学校で会えるといいですね」
夕日に照らされたその笑顔に、俺は見とれていた。
82: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:08:53.36 ID:La4hkDje0
次の日。俺はいつもの道を、いつものように歩いていた。
風邪は完治した。これも千反田のおかげだろうか。
突然、何者かに背中を思いっきり叩かれる。こんなことをするのは……。
奉太郎「里志か……」
里志「おっはよー、ホータロー!」
奉太郎「おはよう。やけにテンションが高いな」
里志「昨日はお楽しみでしたねぇ!」
奉太郎「何だそれは」
里志「あれ、千反田さんがお見舞いに行かなかったかい?」
知っていたのか。と言おうとして、千反田なら、来る前に部室に顔を出して、断るくらいするだろう。
里志や伊原が知っていても、何の不思議もない。そう思った。
83: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:10:58.52 ID:La4hkDje0
奉太郎「ああ、来たな」
里志は一人でうんうん頷いている。
里志「そうだろうとも。で、何かあったかい?」
奉太郎「千反田が飯を作ってくれたな」
里志「そうかそうか。千反田さん、料理が上手いからね。いいなぁ」
俺は密かに笑う。こいつは俺から何を引き出したいのだろうか。
里志「ホータロー……。千反田さんは、ホータローのことが好きなんじゃないか、って思うよ」
奉太郎「そうかもな」
俺は曖昧な返事をする。こういう話をするってことは、こいつはまだ俺たちの事を知らないようだ。
まあ、いずれ話すこともあるだろう。今は多くを語らないことにした。
84: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:12:55.11 ID:La4hkDje0
里志「ホータローは、彼女の気持ちに応える覚悟、あるのかい」
もちろんある。と言おうとして、俺は言葉を飲み込んだ。
果たして本当にそうなのだろうか。
確かに一昨日、俺は千反田と結ばれた。いい加減な気持ちで言ったつもりは毛頭ない。
あれは俺なりの精一杯だった。だが、俺は千反田に、自分の気持ちをぶつけただけではないのか。
なるほど千反田は俺の気持ちを受け入れてくれた。
だが俺は、真に千反田の気持ちを受け止めたと言えるのだろうか?
里志「あっ、あれ千反田さんじゃないか」
俺の考えは、里志の言葉にかき消されてしまった。
見ると正門のところに千反田が立っている。
85: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:14:53.47 ID:La4hkDje0
里志「おっはよう! 千反田さん!」
里志が手を振る。
える「おはようございます、福部さん。折木さんも」
奉太郎「……朝の挨拶運動?」
える「違います。……折木さんを待っていたんです」
奉太郎「俺を?」
里志はニヤニヤしながら、『それじゃあ、僕は』と言って去ってしまった。
える「それはそうと、お加減はもう大丈夫ですか?」
奉太郎「ああ、おかげさまでもう何ともない。お前にもうつってないみたいで、よかった」
千反田は嬉しそうに笑った。
86: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:16:54.86 ID:La4hkDje0
奉太郎「俺を待っていたって言ってたが、何か用だったか?」
える「いえ、用というのではないんです……。ただ……」
奉太郎「ただ?」
える「一刻も早く、折木さんにお会いしたかったんです……」
奉太郎「……」
こ、これはかなり恥ずかしいぞ。
誰かに聞かれていないだろうかと、周りを見回すが、俺たちに注意を払うそぶりの生徒はいない。
奉太郎「……とりあえず、行こうか」
える「はい」
俺と千反田は、並んで歩き出す。こうして俺たちは、短い距離ではあるが、一緒に登校した。
俺はといえば、千反田を抱きしめたくなる衝動を抑えるのに、必死だった。
87: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:18:54.28 ID:La4hkDje0
放課後、古典部の部室に行くと、既に摩耶花さんが来ていました。
える「こんにちは、摩耶花さん」
摩耶花「あ、ちーちゃん」
摩耶花さんは、スケッチブックを開いて何か描いていたようですが、それを閉じると。
摩耶花「ね、ね、ちーちゃん。折木もいないことだしさ。折木とのこと聞かせてよ」
える「え、うーん、そうですねえ……」
摩耶花「えー、話してくれるって言ったじゃなーい」
える「ふふっ、そうですね。はい、……結論から言えば、わたしたち、お付き合いすることになりました」
摩耶花「ええぇーーー!? そ、それホント!?」
える「はい、恥ずかしながら。でも、摩耶花さんの言った通りでした」
摩耶花「そ、そりゃあ折木がちーちゃんのこと好きかも、とは言ったけど……。
うわー、そこまで話が進んでるなんて、完全に予想外だわ」
そしてわたしは、一昨日のことから話し始めました。
88: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:20:54.80 ID:La4hkDje0
摩耶花「……何よ、あいつ結局、ちーちゃんのこと泣かしてるんじゃない。
まったく、あの朴念仁ときたら……」
える「いいんです、摩耶花さん。わたしも悪かったんです」
摩耶花「だとしても! いっぺん締めてやらないと気がすまないわ」
える「やめてください! 摩耶花さん! そんなことされたら、わたし……」
摩耶花「じょ、冗談だってば、ちーちゃん。わたしが言葉以外で折木を締め上げることなんてないから!」
える「はい……」
摩耶花「でも……」
摩耶花さんは、ふっと優しい顔になると、言いました
摩耶花「よかったね、ちーちゃん」
える「はいっ!」
89: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:22:54.97 ID:La4hkDje0
ガラガラと戸が開きます。
里志「やあ、摩耶花、千反田さん。ご機嫌いかが?」
える「福部さん、こんにちは」
摩耶花「ふくちゃん! ちょっと聞いてよ」
摩耶花さんの剣幕に怯んだ様子で福部さんが答えます。
里志「な、何かな摩耶花……」
摩耶花「ちーちゃんと折木、付き合ってるって!」
福部さんは一瞬眼を見開くと、わたしと摩耶花さんの顔を、交互に見つめました。
里志「へぇ……、そりゃあたまげたなぁ。ふうん、ホータローがねえ。千反田さんとねえ……」
そう言いながらも、福部さんはあまり驚いた様子はありません。
里志「いや、ここ数日の千反田さんの、ホータローに対する態度は、何か違うなとは思ってたんだ。
だけどそこまで二人の仲が進んでるとは、びっくりだよ。
しかしホータローがねえ……。うん、こりゃめでたいなあ……」
90: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:24:54.04 ID:La4hkDje0
摩耶花「こうなったら、何かお祝いしてあげなくちゃいけないかしらね」
える「そんな! お祝いなんて、大袈裟です! わたしは、お二人の言葉だけで十分です……」
里志「おめでとう、千反田さん。よかったね」
摩耶花「改めまして、おめでとう、ちーちゃん」
える「あ、ありがとうございます……」
改めて言われると、照れてしまいます。
それにしても、折木さんはまだでしょうか。毎日顔を出す方ではないので、絶対来るとは言えません。
来るならもう来ていてもいいはずです。
その、出来れば来て欲しいな、と。
わたしは心の中で、折木さんが来ることを願いました。
91: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:26:53.54 ID:La4hkDje0
いかんいかん。すっかり遅くなってしまった。
昨日までに提出する宿題があったのだが、休んだことですっかり忘れていた。
おかげで、今まで居残りをする羽目に陥っていたのだ。
俺は古典部の部室へ急いでいた。
……何を急いでいるんだ、俺は。
別に急ぎの用など、何もないはずだ。
やめた。ゆっくり行こう。俺のスタイルに合わない。
急いては事をし損じるとも言うしな。
だが、ゆっくり行くと決めたはずなのに、気持ちは何故か、先へ先へと行ってしまう。
俺は何を焦っているんだろう。
……いや、本当はわかっていた。
92: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:28:55.02 ID:La4hkDje0
俺は千反田に、早く会いたいのだ。
だけどそのことに、何故か気後れを感じてしまっていた。
どうしてだろう。誰に遠慮することもないはずなのに。
今朝里志に言われたことが、尾を引いている。
俺に千反田の気持ちを受け止めることが出来るのだろうか。
千反田の気持ちを受け止めるとは、どういうことだろう。
具体的にどうすればいいんだろう。
そうこう考えているうちに、部室の前まで来てしまった。
ええい。考えても仕方ない。
俺は余計な考えを振り払うと、部室のドアを開けた。
93: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:30:52.49 ID:La4hkDje0
千反田は、いた。
える「あ、折木さん」
千反田が嬉しそうに立ち上がる。
える「来てくれたんですね。今日はもう来ないかと思ってました」
奉太郎「ああ、来た」
える「あの、摩耶花さんと福部さんに、わたしたちのこと、お話ししました。よかったですよね?」
奉太郎「ん、ああ、まあいいんじゃないか」
そうか、話したのか……。いずれは知られてしまうことだ。
しかし今度会ったら何と言われるか……。
奉太郎「そういえば、里志と伊原は?」
える「お二人とも先ほどまでいらしたんですけど、ついさっき帰られました。
何でも今日は、お二人で買い物に行くとかで……」
奉太郎「そうか」
94: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:32:53.68 ID:La4hkDje0
える「……それで福部さんったら、可笑しいんですよ。摩耶花さんに……」
千反田は先ほどから、楽しそうに話しかけてくる。
だが俺は、相槌もそこそこに、半ば別のことを考えていた。
こうしていると、千反田は実に楽しそうだ。
相手が俺だからだと思いたい。
だが、伊原や里志に向けられる笑顔と、今の千反田の笑顔。何か違いはあるのだろうか?
と言うより、俺はこいつを心から楽しませることが出来るのだろうか。
俺は話題の多い方ではない。
千反田は、そのうち俺に愛想を尽かしてしまうのではないだろうか。
そう思うと、胸が苦しくなる。
95: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:34:53.73 ID:La4hkDje0
える「折木さん?」
千反田が顔をズイッと近づけてくる。
奉太郎「な、何だ」
える「……どうかしましたか?」
奉太郎「えっ」
どうかしたかとは、どういうことだろう。俺は少し考えた。
奉太郎「どうとは、どういうことだ?」
える「……今日の折木さん、何だか変です。わたしに対して、素っ気ない感じがします。
もしかして、何か考え事でもあるんじゃないですか?」
そこまで言われて、俺は気付いた。参ったな。態度に出ていたのか。
える「わたしでよければ、何かお力になれるかも知れません」
96: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:36:53.43 ID:La4hkDje0
そうは言うが、一体どう言ったらいいものか。
奉太郎「あー、千反田。その、な……」
える「はい」
奉太郎「俺は……、何と言ったらいいのか……」
える「大丈夫ですよ。ゆっくり考えてください」
奉太郎「そうだな、俺は……、ぶっちゃけて言うと……」
える「言うと?」
奉太郎「千反田、お前とどう付き合っていいか、正直わからない」
える「……」
奉太郎「というより、どう向き合っていいか、わからない、と言った方が近いかな。
お前が俺のことを好きだと言ってくれて、嬉しかった。
それと、俺がお前を好きだって気持ちに、嘘偽りはない。これは確かなんだ。
だが……」
そこで俺は一旦息を吐いた。
97: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:38:53.80 ID:La4hkDje0
奉太郎「だけど、俺はお前の気持ちにどう向き合ったらいいか、わからない。
どうやったらお前の気持ちに応えられるか、わからないんだ。
俺はお前を、抱きしめたいと思う。キスしたいと思う。繋がりたいと思う。
だけどそんなのは俺の勝手だ。
自分の欲望を満たすだけじゃ、相手の気持ちに応えるなんて、遠く及ばない」
える「折木さん……」
奉太郎「千反田は昨日、俺の見舞いに来てくれた。飯を作ってくれた。
嬉しかった。何より心が満たされる気がしたよ。
気持ちに応えるって、ああいうのを言うんだろうな。
だけど俺には、お前に同じ気持ちを味わわせてやれる自信がない。
……というか、その方法がわからないんだ。
……すまん千反田。俺には最初から、お前と向き合う真摯さが欠けていたのかも知れない。
覚悟がなかったんだ。好きって気持ちだけじゃ、どうにもならないこともあるよな」
一気にまくし立てて、息が苦しい。俺は大きく深呼吸した。
98: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:40:52.86 ID:La4hkDje0
える「折木さん、そんなこと考えてたんですか……」
千反田は、深く息を吐くと話し始めた。
える「いいえ、折木さんは誰よりも真摯な人です。わたし、正直言って感動で胸が震えてしまいました。
この人は、そこまでわたしのことを考えてくれる。こんなにもわたしを思ってくれてるんだって。
わたしこそ、自分のことしか考えてなかったって、思い知らされました。
わたし、折木さんに告白されて、浮かれていました。それこそ折木さんしか見えなくなるくらいに。
昨日お見舞いに伺ったのだって、決して折木さんの為じゃないんです。
わたしが、したいことだったからしたんです」
奉太郎「千反田……」
える「でもね、折木さん。わたしは、折木さんがお見舞いが嬉しかったって言ってくれて、嬉しかったです。
そういうものじゃないでしょうか。
自分のためにしたことが、相手の感謝を呼んで、その気持ちが返ってくる。
素敵なことだと思います」
ううむ……。
99: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:42:54.46 ID:La4hkDje0
える「わたしは、折木さんが自分勝手だとか、相手のことを考えないとは、思いません。
というか、折木さんはいつも他人のことばっかりです。
もっと自分にわがままになってください。その方がわたしも嬉しいんですから」
奉太郎「……そんなもんかな」
千反田は俺の頭を胸に抱いた。何か柔らかいものが顔に当たる。
える「そんなもんです。
わたしだって男の人とお付き合いするのは初めてですから、わからないことだらけです。
でも、折木さんとなら、色々なことをしたいなって思えます。
だから折木さんも……。わたしに色々求めて欲しいです。
折木さんの気持ちが、わたしの心を満たすんです」
俺はしばらく、その甘い感触に浸っていた。
101: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:44:53.98 ID:La4hkDje0
奉太郎「ふあ~あ」
俺は大きく伸びをすると、向かいに座る千反田に声を掛けた。
奉太郎「ありがとう、千反田。何だかすっきりしたよ。憑き物が落ちた感じだ」
える「よかったです。わたし、いつ別れ話を切り出されるかと、ドキドキしてました」
奉太郎「実際半分くらい、そのつもりだったけどな」
える「も、もうっ! 折木さん!」
奉太郎「許してくれ。それだけ思い詰めてたってことだ」
俺たちはお互い笑い合う。
奉太郎「さっきお前に言われたことだが、俺なりに善処してみるつもりだ。
すぐには、結果は保証できないけど」
える「はいっ、十分です」
奉太郎「ときに千反田」
える「何ですか?」
奉太郎「キス、しようか」
102: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:47:00.47 ID:La4hkDje0
える「え」
千反田の動きが止まる。
える「え、え、えええぇーーー!?」
千反田は真っ赤になってしまう。
なんだ、一昨日や昨日はそっちから提案してきたくせに。わからない奴だ。
奉太郎「嫌なら無理にとは言わん。ただ昨日約束したからな……」
える「え、あ、し、します、します。したいです!」
そうか、よかった。
奉太郎「千反田」
愛しい人の名前を呼ぶ。
える「あ、折木さん……」
俺は千反田の両肩に手を置き、千反田を引き寄せる。
そのまま俺と千反田の唇が触れ合った……。
103: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:48:53.38 ID:La4hkDje0
俺は少し悪戯心を起こした。
ただ触れ合うだけのキスではつまらない。
有り体に言えば、千反田の口の中に、自分の舌を割り込ませたのだった。
える「! ん~っ、ん、~~~っ!」
千反田の驚きの声は、もちろん言葉にならない。
奉太郎「ん、むうん、ぴちゅ、ぺちゃ、んんっ」
千反田の拳が、俺の胸をポカポカ叩く。
俺は暴れる千反田の舌を、強引に自分の舌で押さえ込もうとする。
止めるわけにはいかない。こっちだって必死なのだ。
える「ん、ふ、んん~っ、ぴちゃ、ん、んん」
千反田がだんだんおとなしくなってきた。
やっと観念したか?
104: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:50:53.61 ID:La4hkDje0
千反田の唾液は、ほのかに甘い味がした。
どちらのものとも知れない唾液が、二人の結合部の隙間から垂れていく。
そんなことが気にならないほど、俺は千反田の口内を舐めまわす行為に没頭していた。
美味しい。というか気持ちいい。キスがこんなに気持ちいいことだったなんて。
俺は千反田の上の歯茎を舐っていた。千反田はずいぶん歯並びがいいな。
千反田は、もう完全にされるがままになって、俺の行為を受け入れていた。
える「ん、ぱちゅっ、んちゅっ、んん、ぴちゅ」
だが流石に、疲れてきた。もういいだろうか?
名残惜しかったが、俺は千反田から唇を放した。
つーっと、二人の間に、糸が引いた。
105: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:52:57.68 ID:La4hkDje0
える「あ……、折木……、さん……」
千反田は、ぽーっとした様子で俺を見つめている。大丈夫だろうか?
奉太郎「千反田大丈夫か。千反田? 千反田ーっ」
える「う……、うん……」
頬をペシペシ叩くが、芳しい反応はない。
俺はグデングデンになった千反田に肩を貸すと、椅子まで歩いていって座らせた。
少しやりすぎてしまったようだ。千反田には少々刺激が強すぎたかもしれない。
後で正気に戻ったら、ちょっと謝っておこう。
いつの間にか空には夕日が射している。
危うく破局を迎えそうになった(?)千反田と俺だが、今日は千反田に救われた。
俺は清々しい気分だった。これからの人生千反田に報いるためにも、頑張らなければ。
奉太郎「ははっ」
頑張るか……。実に俺らしくない言葉だ。だが今は。
少し。ほんの少しだけ、エネルギー消費の大きい人生に踏み出してみるのも悪くないかな、と思うのだった。
106: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 22:58:43.39 ID:La4hkDje0
お終い
書き始めは大真面目だったのだが、なんだかバカバカしい話になってしまった気がする…
ともあれ、お付き合いありがとうございました
>>100
うわあ、何だかすごい人からレスもらっちった
あなたのss、ファンです
自分はまだまだ未熟ですが、読んでもらえて嬉しいです
以下、ちょっとしたおまけあり
107: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:00:15.10 ID:La4hkDje0
おまけ
える「わたし、もうお嫁に行けまひぇん……」ビエーン
奉太郎(お嫁に行けないなら、婿を取ればいいじゃない。……とは言えないな)
奉太郎「なに、千反田なら、いくらでも嫁の貰い手は見つかるさ」
える「いやです」グスッ
奉太郎「え?」キョトン
える「折木さんじゃなきゃ、いやです」キラキラ
奉太郎「そ、それは光栄だ……」タジタジ
える「というわけで折木さんっ! 責任とってくださいね!」ギュッ
奉太郎「……///」
108: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:01:32.00 ID:La4hkDje0
おまけ2
次の日―――
摩耶花「床に何か垂れてる」
摩耶花「こ、これはまさかえっちなお汁!?(注:よだれです)」カアア
摩耶花「じゃ、じゃあちーちゃんと折木、あの後……」モジモジ
里志「やあ摩耶花。どうしたの?」ガラッ
摩耶花「あっ、ふくちゃん! 実はこれこれしかじかの……」
里志「かくかくうまうまというわけか。へえぇ、やるねえ、ホータローも」
摩耶花「ねえ、ふくちゃん……。わたしたちも……///」シナッ
里志「まっ、摩耶花!? ここじゃまずい。そうだ! 今日は総務委員の仕事が……」
摩耶花「ふくちゃんってば、そうやっていっつも大事なときにはぐらかすんだから……」ウルッ
里志「ゴメン、摩耶花……。データベースは結論を出せないんだー!」ダダッ
摩耶花「ふくちゃん……」
109: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:02:22.88 ID:La4hkDje0
おまけ3
える「折木さん。一緒に帰りましょう」
奉太郎「ああ、そうだな」
とは言っても、俺の家と千反田の家は、基本的に正反対の方向だ。
学校を出て、ちょっと歩いたらもう別れなければならない。
それでも。いや、だからこそ少しでも一緒にいたい。
俺と千反田は、連れ立って部室を後にする。
奉太郎「……」
える「……」
何だろう。話したいことはいくらでもあるはずなのに、何故か言葉が出てこない。
それは千反田も同じようだった。
千反田とふたり、夕焼けに染まる校舎を歩いてゆく。
今日も夕焼けは綺麗だった。
110: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:03:18.22 ID:La4hkDje0
わたしと折木さんは、並んで歩きながら、昇降口に向かっていました。
折木さんは何も喋りません。わたしもつい、無言になってしまいます。
でも。
こうして歩くのも、何だか良いものです。言葉じゃなく、通じ合ってる気がして。
える「ふふっ」
奉太郎「どうした?」
える「こうしてると、何だか恋人同士みたいだなって」
奉太郎「……みたいじゃなく、実際そうだろ」
当たり前の反応かも知れませんが、わたしには嬉しい言葉でした。
える「はいっ」
笑顔で応えると、折木さんは向こうを向いてしまいました。
照れているようでした。照れる折木さんは、何だか可愛いです。
でも……。
何か足りないような気がしました。なんでしょう?
111: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:04:18.83 ID:La4hkDje0
自分で言ったことなのに、照れてしまう。
それもこれも、千反田の笑顔のせいだ。
千反田の笑顔は、俺には眩しかった。
時折眩しすぎて、眼が眩みそうになる。
だが、それは決して不快なものではなく、むしろ心地よかった。
それでも俺のキャパシティに収まり切らないときは、こうして顔を背けてしまう。
悪い癖だ。
いつか千反田の笑顔を、正面から受け止められる男になりたい。いや、ならなければならない。
そう思いながらも、今はそっと顔を背けてしまう俺だった。
112: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:05:33.79 ID:La4hkDje0
わかりました!
手です!
恋人同士なら、手を繋ぐものです。腕を組むのでもいいのですが……。
わたしはチラッと折木さんの手を見やります。
わたしのものより、大きな手。
男の人の手でした。
その手にわたしの手が包まれたら、と思うだけでドキドキしてしまいます。
でも……。
わたしの方から手を伸ばすのは、何だか躊躇われました。
わたしが女だから、というのを気にしているわけではありません。
ただ、折木さんの方から握って欲しい。そう思いました。
気付いてください。折木さん!
そうこう念じているうちに、昇降口に着いてしまいました。
113: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:06:21.08 ID:La4hkDje0
俺と千反田は昇降口に到着した。
千反田とは、最もクラスが離れている。当然下駄箱も遠く離れていた。
ここで一旦別れなければならない。
千反田を見ると、彼女はどこか悲しげな眼を俺に向けた。
そんな顔をするな。何もここで今日は別れるわけじゃない。
奉太郎「じゃ、後でな」
える「はい……」
自惚れかも知れないが、声も悲しそうだった。
俺は後ろ髪を引かれる思いで、自分のクラスの下駄箱へと向かった。
ふう。
気にしているのは、俺の方かもな……。
114: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:07:25.80 ID:La4hkDje0
折木さんの後姿を見送って、わたしは自分の靴箱へと向かいます。
結局校舎内では、手を繋ぐことは出来ませんでした。
ここから正門まで歩いて、そこからもう少し行けば、折木さんとはお別れです。
える「はぁ……」
わたしは靴箱から靴を取り出しながら、溜め息を吐きました。
元々折木さんは、こういうことに聡いほうではないと思います。
ですが……。
わたしは折木さんに言いました。わたしのことをもっと求めて欲しいと。
折木さんは、わたしと手を繋ぎたくないのでしょうか?
そうは思いたくないです。
折木さんのことですから、単にそんなこと思いも付かないだけなのでしょう。
でも……。
わたしは首を横に振って、その考えを振り払いました。
折木さんとは、先は長いのです。焦ることはありません。
わたしは、昇降口の前に立つ折木さんのところへ、駆け寄っていきました。
115: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:08:25.66 ID:La4hkDje0
俺に少し遅れること、千反田がやってきた。
奉太郎「それじゃあ行くか」
える「はいっ」
その顔には、さっきの翳りは感じられない。
こいつはそんなに俺と一緒にいたいのか。
自惚れかも知れないが、何だか胸が熱くなる。
もちろん俺も、可能な限り千反田と一緒にいたい。
そうして俺たちは、正門に向かって歩き出す。
俺は千反田を抱き締めたい衝動に駆られていた。
だが、公衆の面前でそれは憚られる。
第一それでは歩けない。
それでも俺は、もっと千反田を感じたかった。
ふと、千反田の方を見る。千反田は鼻歌を歌っている。
手はブラブラさせている
俺より小さな手。柔らかそうな手。
116: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:09:18.18 ID:La4hkDje0
奉太郎「そうか……、手か……」
折木さんが何か呟きました。
える「えっ? 何ですか?」
奉太郎「いや、何でもない……」
える「そうですか。わたし、自転車取ってきますね」
奉太郎「あ、ああ、じゃあここで待ってる」
える「はい、じゃあ行ってきます」
あまり待たせては悪いので、わたしは小走りで、駐輪場へ駆けていきました。
自転車を押していては、手を繋ぐことは出来ません。
残念ですが、手を繋ぐのは明日以降に持ち越しです。
わたしは鍵を解除すると、自転車を押して、折木さんのところへ戻っていきました。
117: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:10:19.97 ID:La4hkDje0
失念していた。千反田は自転車通学だった。
これでは手は繋げない。もっと早く気付くべきだった。
千反田が自転車を押して、こちらに駆けてくる。
転ぶなよ、と内心念じる。
あっ、躓いた。だが自転車を押してるおかげで転ばずに済む。
える「ハァ、ハァ、恥ずかしいところを見られちゃいました……」
奉太郎「転ばなくて良かったよ。じゃあ行こう」
俺と千反田は、再び並んで歩き出した。
やっぱり俺たちは何も喋らなかった。
千反田の方を見る。
顔が紅く見えるのは、夕日だけのせいではないだろう。
そんな千反田に俺は……。
118: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:11:33.61 ID:La4hkDje0
える「あっ……」
自転車のグリップを握るわたしの手に、何か温かくて大きいものが被さってきました。
それは折木さんの手でした。
驚いて、折木さんの方を見ます。
折木さんもこちらを見ていましたが、その顔はいつものぶっきらぼうな表情のままでした。
わたしの思いが通じたのでしょうか。わたしは嬉しくなって、笑顔を返しました。
あ。折木さん、そっぽを向いてしまいました。照れているようです。
うふふ、やっぱり照れる折木さんは可愛いです。
手を握り返せないのが、残念ですけれど。
でも今日はこれで十分な気がします。
何より、折木さんの方から手を握ってきてくれたことが嬉しくて、わたしの心は満たされるのでした。
119: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:12:34.29 ID:La4hkDje0
千反田の手は、思ったとおり柔らかかった。
そして少しひんやりした。
千反田と繋がっている部分から、彼女への思いが湧いてくる気がした。
もう正門は過ぎてしまった。
ふたりの残りの距離は、どんどん縮んでいく。
気のせいかもしれないが、少し胸が苦しい。
こんな思いをするくらいなら、手など握らなければよかったとよほど思う。
……だが、それじゃいけないんだろうな。
千反田とは、明日も明後日も会える。
休みの日だって、会おうと思えば会えない距離では全然ない。
今生の別れではないというのに、何をそんなに嘆く必要がある?
そしてついにその時は来た。
120: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:13:36.66 ID:La4hkDje0
いよいよ別れ道です。いえ、分かれ道、ですね。縁起でもないです。
わたしたちは立ち止まりましたが、折木さんの手はわたしの手に置かれたままです。
わたしは声を振り絞りました。
える「それじゃ、折木さん……。また明日」
奉太郎「ああ、そうだな……」
そう言う折木さんの手は、まだわたしの手の上に置かれたままでした。
える「あの、折木さん……」
奉太郎「あ、ああ、すまん」
折木さんの手が離れていきます。何だか悲しくなってしまいます。
える「あの、折木さん?」
奉太郎「どうした」
わたしは指先で、折木さんを招き寄せます。
奉太郎「?」
も、もうちょっと近くに……。
奉太郎「なんだ?」
今です!
121: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:14:28.11 ID:La4hkDje0
奉太郎「!」
なんだ? 何が起こった?
俺の唇に柔らかいものが触れた。
今のは、キス、か……?
千反田は慌てた様子で自転車に跨ると、
える「さようなら、折木さん。また明日……、です」
急いで去っていってしまった。
俺はポカーンとして、千反田を見送る。
奉太郎「あ……」
俺はなんだか、可笑しくなってきた。
奉太郎「ふっ、くっくっくっ……」
ダメだ、笑いが止まらない。
奉太郎「あっ、はっはっはっはっはっ……」
俺は笑いながら、いつまでも千反田の後ろ姿を見送っていた。
122: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:15:34.10 ID:La4hkDje0
うう……。
わたしは、急いで自転車を走らせます。
折木さんに、不意打ちのキスをしてしまいました。
自分でしたことなのに、顔から火が出そうです。
折木さん、どう思ったでしょう?
後ろを振り向く気には、なれませんでした。
でも……。
える「うふふ」
わたしは笑いました。
明日への活力が、充填されたような気がします。
える「ありがとう、折木さん」
わたしは夕暮れの中、家に向かって元気よく自転車を漕いでいきました。
123: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:20:19.88 ID:La4hkDje0
今度こそ、お終い
以上、駄文に付き合ってくださり、ありがとうございました
氷菓もいよいよ残すところ来週のみです
家はBS11なのでまだあと二話ありますが
また何か書けるといいな
124: ◆Oe72InN3/k 2012/09/11(火) 23:31:51.36 ID:MkGkV/2s0
乙です。
次回作も、楽しみにしています。
125: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:35:13.52 ID:La4hkDje0
>>124
あ、ありがとうございます!(反応があって良かった…)
126: VIPにかわりましてNIPPERがお送りします(栃木県) 2012/09/11(火) 23:38:11.29 ID:PgqX51n0o
甘すぎ乙
アニメももう終わりか…
二期やって欲しいわ
127: ◆axh.jP1Twpjg 2012/09/11(火) 23:56:25.97 ID:La4hkDje0
>>126
そう言って頂けるとなによりです
いかんせん原作ストックがないので…
また10年後とかに
ダメかな?
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- 2012/09/12(水) 23:33:15|
- 氷菓
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